久野城址
明応年間(1492~1501)に、久野宗隆によって築城された平山城。その後、城主となった久野宗経は今川義元の西進作戦に、松平元康(後の徳川家康)とともに参戦。
後、徳川家康が、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めた際には、当時の久野城主久野宗能は家康に味方した。
元亀3年(1572)、久野城は三方ヶ原の戦いの前哨戦として武田信玄に攻められるが、久野宗能は落成させず守り切った。
本能寺の変の後に、家康が堺から岡崎に逃げ延びた伊賀越えの時には、久野宗能の長男、宗朝が同行して逃げ切った。
その後、宗能は武田勝頼の高天神城攻めにも徳川方として参戦するが、転封先での不手際で改易される。後、家康の一言で、隠居料として再び久野城主となる。
久野城は、その後、家康の甥、北条氏重が城主に任命された。現在見られる城址の姿は、氏重が武家諸法度に従って丘陵上の城塞を改変した姿。久野城大手門は移築され、幕末まで掛川城北門として残されていた。
地域 | 遠州 |
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所在地 | 袋井市鷲巣1135他 |
電話番号 | 0538-23-9264 |