三遠南信徹底解剖
見どころ・聞きどころ・体感どころを一挙大公開!
「歴史は過去のことではなく、今現在に脈々と受け継がれている足跡なのです」。そんな想いを実感できるスポット紹介。 【戦国武将の軌跡】 武田信玄(1521−1573)・勝頼(1546−1582)、織田信長(1534−1582)、徳川家康(1542−1616)、こうした名前は、歴史が苦手という人でも聞き慣れた武将たちといえますよね。歴史の教科書では遠い存在の人物でも、彼らが残した歴史を知り、彼らにまつわる場所を実際に訪ねてみると、彼らがそこで実際に生き、戦った様子がひしひしと伝わって、なんだか身近な一人の人間として感じることができるのです。 そんな場所が三遠南信にはたくさん残されていますから、ゆっくり史跡巡りに出かけてみてはいかがですか。 |
|
●信玄滝:長野県飯田市南信濃 | |
南和田にある食事処「滝見の館」の裏閧ノ、「信玄滝」※1と呼ばれる滝があります。なんでも三河侵攻でこの地に立ち寄った際に、武田信玄が休息した場所といわれているところです。 |
※1信玄滝 |
●青崩峠途中の信玄公腰掛け石:静岡県水窪町 | |
地図を見てもお分かりのとおり、国道152号線は水窪町の青崩峠のところで寸断されています。これも青崩峠の土がボロボロと崩れやすく道を通すことができなかったため。昔、信州と遠州を歩いて行き来する人たちにとっても、この峠が一番の難所といわれたところです。現在も青崩峠の頂上※2には歩いてしか上ることはできません。ヤが入れるところまで上りきり、そこから徒歩で15分から20分ほどで頂上へのぼります。その途中、木々の傍らには武田信玄が山越えの際に兵馬とともに休憩し、腰掛けたといわれる石があります。 |
※2青崩峠の頂上 |
●設楽原 | |
愛知県新城市の鳳来地区にある「長篠城」とその周辺の設楽原付近。ここは戦国の昔に武将たちのすさまじい戦いが繰り広げられたところです。まずはいったいどんな戦いだったのか、振り返ってみましょう。 1575年。甲斐の武田勝頼が1万5千の大軍を率いて長篠城を取り囲みました。武田軍にとって長篠城は信州の山あいを通って三河の平地へ出て、さらに当時都へ進むためには、とても大事な拠点。しかも1571年、一度は武田方についたものの、2年後の1573年には徳川方に翻った城だったために、武田軍としては、「なんとしてもこれを奪い返したい!」と思っていたようです。 武田軍は毎日のように攻撃を仕掛けましたが、当時の長篠城主・奥平貞昌は500名という少ない城兵ながらよく戦い、なんとか耐え抜きました。とはいっても、やはり天下無敵とうたわれた武田軍です。500人は城を守るにはあまりにも少人数。「これでは後が無いぞ」と貞昌は救援を求める使者として自ら名乗り出た鳥居強右衛門勝商(かつあき)※3という人物を、岡崎の徳川家康の元へ向かわせたのでした。 鳥居強右衛門は厳重な武田軍の包囲をかい潜るため、夜暗くなってから野牛門の下水口から城外に出て、梅雨で水流激しい滝川(現在の寒狭川)の急流を4kmほど下っていったといいます。そして川の中に張り巡らされた網をも断ち切り、陣中を駆け抜け、徳川家康と織田信長に援軍を頼むことに成功したのです。 ところがです。「ただちに援軍を出すぞ!」という嬉しい返答を受けて長篠へ戻る途中、鳥居強右衛門は武田軍に捕らえられてしまいます。「援軍は来ないと伝えれば、命は助けてやるぞ」と武田軍にいわれた鳥居強右衛門ですが、彼は従わず、長篠城に向けて「徳川・織田連合軍が助けに参ります。しばしのご辛抱を!」と叫び、武田軍により命を奪われました。 国道151号を通ると、ゴツい顔をしたふんどし姿の男が磔にされた大きな看板を目にすることでしょう。「いったい誰?」と驚くなかれ。彼こそが低い身分ながらも城主をはじめ仲間を守るために命をかけた英雄として称えられる鳥居強右衛門勝商なのです。 |
※3鳥居強右衛門勝商(かつあき) |
●甘泉寺 | |
愛知県新城市作手にある「甘泉寺」の境内には、織田信長が鳥居強右衛門勝商を長篠合戦の勲功者として称えた石碑※4、さらに寺内には位牌が祭られています。 鳥居強右衛門からの伝えを聞き、設楽原へ到着した3万8千の織田&徳川連合軍と、当時、日本一強いと恐れられていた武田の騎馬隊との戦いが始まりました。 連吾川の西側に陣を構えた織田&徳川連合軍。信長は武田の騎馬隊を迎え撃つために、わざわざ岐阜から柵木を取り寄せ、馬防柵(ばぼうさく)を設置させました。一方、武田勝頼は大部分の軍勢を引きつれて、豊川をわたり設楽原へ出陣。そして連吾川東岸の高台に陣地をしきました。 三千の鉄砲を三段構えにして騎馬隊へ鉄砲を討つ連合軍。無敵を誇った武田の騎馬隊。 結局、この戦いで武田軍1万兵、連合軍6000兵が命を落としました。 |
※4甘泉寺の石碑 |
●連吾川&馬防柵 | |
今現在、連吾川を眺めるとあまりの小ささにびっくり。「こんな小さな川をはさんで、大軍睨み合ったのかしら?」と不思議なほどです。でも当時の様子から再現された馬防柵※5に足を留め、周囲を眺めてみると、その広大さの一端に触れる思いがします。 |
※5馬防柵 |
●【信玄塚】 | |
この戦いによって多くの兵士たちが命を落としました。この付近の村民たちは、武田軍も連合軍も分け隔てなく手厚く葬ったと言います。そしてこの地が「信玄塚」※6と名づけられ、毎年お盆に「火おんどり」という供養の火祭りが行われているのです。それは400年以上経った今でも連綿と伝え続けられているのです。 |
※6信玄塚 |
●長篠山医王寺 | |
1514年に創立された長篠山医王寺(新城市鳳来地区)※7は、長篠の戦いの際に、武田勝頼が本陣をしいた場所。境内の資料館には、この戦いで使用されたという槍の穂先や矢尻などが保存されています。 また「弥陀の池」には「片葉のアシ」があり、これは勝頼の設楽原出撃を諌めたアシが勝頼の勘気にあってきりつけられたために片葉になった…という伝説が残っています。 |
※7長篠山医王寺 |
●浜松城 | |
静岡県浜松市にある「浜松城」※8は家康が築いた城として知られています。家康が29歳の時から駿府城に入る45歳までの17年間をこの地で過ごし、ここを拠点に姉川、長篠、小牧などの合戦を乗り越え、領土を拡大していったことから、別名出世城とも呼ばれています。当時のものがそのまま残されているのは、粗削りの岩で頑丈に構築された野面積みの石垣。「家康の出世を見守りつづけてきた石だ」と思うと、なんだか感慨深く眺めてしまいますね。 |
※8浜松城 |
●犀ケ崖(さいががけ) | |
浜松城の北1kmほどのところに「犀ケ崖」と呼ばれる場所があります。小さな拠点なのですが、興味深い伝説が残されています。 戦国時代、三方原合戦で武田軍に敗れ浜松城に逃げ帰った家康を、武田軍がこの地まで追い詰め、犀ケ崖に野営をしきました。これに対し徳川勢は、夜中に長さ2km、幅約50m、深さ約40mの犀ケ崖の谷に布の橋を張り奇襲をかけたのです。すると武田軍は布の橋を本物の橋と錯覚して、馬もろとも崖下に落ちて多くの武将たちが亡くなったと言われています。その由来からこのあたりの地名を「布橋」と呼ばれるようになったのです。 現在この犀ヶ崖では、毎年7月5日に三方原合戦の死者の供養として、「遠州大念仏」が行われています。 |
日本列島心臓部 | 人間情緒再生地! | ゲテモノも美味? | 戦国武将の軌跡 |
眠い・煙い・寒い | 日本の技アリ! | 話題ネタ・・載 |